2010年4月20日
アユタヤ王朝の歴史
ウートーン王の出身については、歴史資料上はっきりしていない。そのためいくつかの説が提出されてきた。なかには、疫病
(おそらくはコレラ)で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、ロッブリー出身説などが
ある。いずれにしろ、アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、北にスコータイ王朝が隣接していたにもかかわらず、アユタヤ
を創設したタイ中部は、スコータイ朝の領土でなかったこと、さらに、アユタヤ時代が始まる直前までの古い遺跡がタイ中部
で見つかっていることから、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたことが窺える。あるいは、小国
が並立していたというようなことも考えられる。例えば、この空白期(アユタヤ朝創設以前のタイ中部)にロッブリーやペッ
チャブリーはスコータイ朝とは別に中国に朝貢している。したがって、ウートーン王の出身もおそらくタイ中部のある国の王
家からだと考えるのが妥当であろうと考えられている。ちなみに、ウートーンというのは金のゆりかごを意味し、伝承の中で
タイ中部でこの名を持つ王は多い。つまり、タイ中部の名づけの習慣でもある。
ウートーン王は、王朝年代記ではラーマーティボーディーという名で記述されている。王が即位するにあたり、スパンナプー
ム王家(スパンブリー)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となる。
ラーマーティボーディー(1世)は国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教と
するとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に(三印法典)を整備した。この三印法典は
近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能することになる。
14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見なされるようになるが、完全に東南アジア地域を圧倒するほ
どの人口に欠けていた。このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしつつあったベトナム勢力に対抗するた
め、ラーマーティボーディーは晩年アンコール(クメール人の都市)を攻撃しアユタヤの版図に加えた(1362年)。しかし、
アユタヤはアンコールの完全な掌握を遂行することはできなかった。スコータイ王国との関係は、スコータイがアユタヤに朝
貢する形となったが、その後、100年かかって、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅する。しかしこの過
程で、アユタヤに新たに興ったスパンナプーム王家とスコータイの王家との姻戚関係が強くなり、その後もスコータイ王家は
存続したと考えられる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
アユタヤ王朝はタイ族による王朝です。
- Permalink
- by
- at 21:22